会津の「義」に捧げた誠。家康の血脈から松平容保、そして新選組斎藤一へと受け継がれた不退転の精神
みなさんこんにちは!お口の健康から全身の健康を創造する、医療法人ユナイテッド理事長の上原亮です。
前回、板橋の地を訪れ、永倉新八や斎藤一の人生について触れました。本日は、斎藤一が新選組としての運命を越えて、自らの魂を預けた「会津」という地の、深く、そして気高い歴史についてお話ししたいと思います。当院のメインバンクは山口銀行(本店下関)です。元長州藩。会津藩は今は福島県。山口の人と福島の人は歴史上結婚できないという噂ですが…。いまもあるのでしょうか?今回は新選組三番隊長斎藤一のブログの続編です。
徳川への絶対忠誠――会津藩のルーツ
会津を語る時、避けて通れないのが保科正之公。会津藩の精神的柱は、藩祖・保科正之公にあります。徳川家康の孫であり、二代将軍秀忠の落胤(らくいん)として生まれた正之公は、三代将軍家光から絶大な信頼を受けました。家光が死の間際、「宗家(徳川)を頼む」と遺言したことに対し、正之公は**「会津家訓十五箇条」**を定めます。
その第一条は「将軍家に不忠があれば、我が子孫ではない。誰も従ってはならぬ」という、凄まじい決意。この徳川への絶対的な「義」こそが、会津の遺伝子となりました。
養子たちの絆――松平定信から容保へ
会津の歴史は、血縁を超えた「志」の継承でもあります。 江戸後期の寛政の改革で知られる松平定信は、徳川御三卿の田安家から会津・松平家の養子に入りました。定信が守り抜いた「伝統と規律」の精神は、幕末の藩主・松平容保公へと引き継がれます。
実は、容保公も美濃高須藩から会津へ入った養子でした。血の繋がり以上に「会津の義」を重んじた彼は、幕末の動乱期、誰もが避けたがった京都守護職を「家訓」に従って引き受けます。この覚悟がなければ、新選組が誕生することもありませんでした。
新選組を抱いた「義」の懐
京都で孤立無援に近かった浪士集団(のちの新選組)を、正式に組織として預かり、擁護したのが容保公です。近藤勇や土方歳三、そして斎藤一にとって、容保公は単なる上司ではなく、自分たちの「誠」を認めてくれた唯一の恩人でした。
先日訪れた板橋の駅前には、永倉新八が建立した近藤勇の墓碑があります。その碑文の筆を執ったのは、他でもない松平容保公です。かつての主君が、処刑された家臣の碑文を書く――。そこには、身分を超えた深い信頼と、共に「義」に殉じた者同士の絆が刻まれています。
「ならぬものはならぬ」の精神と医療
会津の子弟教育には「什の掟」という厳しい教えがあり、その最後は**「ならぬものはならぬ」**で締めくくられます。 理屈や損得ではなく、人として通すべき筋を通す。
このストイックな規律は、斎藤一の「悪・即・斬」の土壌となりました。彼は戊辰戦争の際、新選組の本隊が北上する中、「会津の恩を忘れて去ることはできない」と一人残って戦い続けました。
私たちが提供する歯科医療も、同じであるべきだと考えます。 「この程度でいいだろう」という妥協は、医療人にとっての「ならぬもの」です。最新のインプラントを用いる際も、目に見える美しさだけでなく、生体親和性や全身への健康効果を極限まで追求する。それこそが、患者様に対する私たちの「義」であり「誠」なのです。
結び:阿弥陀寺に眠る魂
斎藤一は明治を生き抜いた後、「死んだら会津に埋めてほしい」と遺言し、現在は会津若松の阿弥陀寺に眠っています。
板橋の静かな墓所で感じた歴史の重み。それは、変化の激しい現代だからこそ、変わってはならない「信念」を持つ大切さを教えてくれました。 最新技術という「剣」を研ぎ澄ませながらも、その根底には会津の志士たちが持っていたような、一途な「誠」を宿した歯科医師であり続けたいと思います。
いつか会津の地を訪れたいと思ってます。
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