第二部:動の徳川 — 田安門、松平定信、容保、そして新選組へ 「義と理想の狭間で生きた男たち」 「信念は、時を超える。」
みなさんこんにちは!お口の健康から全身の健康を創造する医療法人ユナイテッド理事長上原亮です。
昨日のブログ 第一部:静の徳川 — 清水門と清水家、吉宗公の安定策 に続く第2部を本日紹介します。
先日九段下でインプラントのセミナー受講したのですが、少し時間あったので近くの皇居の公園に行ってみました。本日は田安門です。田安門から日本武道館に繋がりますので、みなさん良く通った道だと思います。

旧知の中山先生と新しく出会った名護先生と
田安門と三大卿 ― 江戸の北を守る象徴
田安門は、江戸城の「北の丸」地区の出入口のひとつで、他に「田安門」「清水門」「乾門」をあわせて「三大卿門」と呼ばれていました。
「卿(きょう)」とは、徳川将軍の親族にあたる御三卿(ごさんきょう)を指します。すなわち——
田安家(田安門)
清水家(清水門)
一橋家(乾門)
この三家が、徳川宗家を支えるために創設された分家であり、いずれも将軍にもしものことがあった際に「後継」を出せるように備えたものです。まさに江戸幕府の“保険”のような存在でした。
■ 北の丸 ― 江戸時代は「将軍家の奥庭」だった
さて、清水門の先に広がる「北の丸公園」。現在は国立近代美術館や科学技術館、日本武道館などが立ち並び、都心のオアシスとして多くの人が訪れます。


しかし、この地はもともと江戸時代、将軍家の「北の丸御殿」と呼ばれる別邸兼防衛拠点でした。
江戸城は、天守のあった「本丸」、将軍の日常生活の「二の丸」、そして将軍一族や家臣が居住する「三の丸」によって構成されていました。時期将軍の住む西の丸は現在は天皇陛下が住まわれる場所とのことです。
その北側に設けられたのが「北の丸」で、もともとは「本丸を守る最前線の要塞」だったのです。
のちに徳川家光の時代になると、北の丸には家光の弟たちが住む御殿が置かれ、次第に「将軍家親族の住まい」としての性格を強めていきました。
つまり、清水門や田安門は、単なる門ではなく、「徳川血統を守る門」でもあったのです。
■ 明治以降の変遷 ― 皇室御用地から国民の公園へ
明治維新ののち、江戸城は「皇居」となり、北の丸は「皇室の御用地」として整備されました。
現在の日本武道館がある場所には、明治時代には「近衛師団」の兵営が置かれ、皇宮警護や儀仗の任務にあたる精鋭が駐屯していました。
そして戦後、昭和30年代に入ると、この地は「国民のための文化ゾーン」として生まれ変わります。
昭和41年(1966年)には「北の丸公園」として一般開放され、日本武道館の完成(1964年・東京オリンピック)によって、武道と文化の象徴の地となりました。
いまでは、春には桜、秋には紅葉、そして一年を通じて静かな緑の中に憩う人々の姿が絶えません。
かつて将軍一族しか足を踏み入れられなかった地が、誰もが自由に歩ける公園になったことを思うと、歴史のうつろいに感慨深いものがあります。
【本文】
九段下から武道館の方向へ歩を進めると、北の丸の東側にもう一つの門が現れます。
それが「田安門」。

堅牢な石垣に囲まれたこの門は、清水門の柔らかな静寂とは対照的に、まるで武士の魂が今も息づいているような、凛とした空気を纏っています。
この門の名は、徳川御三卿の一つ「田安家」に由来します。
そして、そこから歴史は幕末へと激しく流れ出していくのです。

すごい鍵ですね!
■ 田安家の始まり ― 吉宗の血脈、改革の系譜
八代将軍・徳川吉宗の次男、徳川宗武が創設したのが田安家。
清水家が静の象徴なら、田安家はまさに「動」。
宗武は学問を好み、政治にも積極的に意見を述べた才人でした。
しかし、その鋭すぎる才覚ゆえに将軍家との距離を生み、しばし蟄居を命じられるほど。
それでも、彼の血筋からは後に幕府改革の立役者が現れます。
その人物こそ、宗武の六男——松平定信。
のちの「寛政の改革」で知られる、徳川中興の祖です。
■ 松平定信 ― 理想を追いすぎた天才
松平定信は、白河藩主の養子として育ち、学問と礼節を重んじる人物でした。
十代将軍・徳川家治の死後、幼少の家斉が将軍となると、その後見人として老中首座に就任します。
彼が掲げた理想は明快でした。
「倹約」「人材登用」「農村復興」。
吉宗公の享保の改革を理想とし、世の乱れを正そうとしたのです。
しかし現実は厳しく、人々は倹約よりも“安楽”を求め、商人たちからも反発を受けます。
理想家の孤独、そして改革者の宿命。
定信は、後世に「厳しすぎた名君」として記憶されることになりました。
昨年の大河ドラマでは、この定信が若き日の信念を貫く姿が印象的に描かれていました。
彼の理想は時代には早すぎたのかもしれません。
しかし、誠実に国を思うその姿勢は、今も日本人の心に何かを問いかけてきます。
■ 松平容保 ― 幕末の忠義と悲劇
そして時代は、幕末へ。
田安家の流れをくむ人物がもう一人登場します。
会津藩主 松平容保(かたもり)。
定信の孫にあたるこの男こそ、幕末京都で“徳川の盾”として戦い抜いた人物です。
文久2年、京都守護職に任じられた容保は、尊王攘夷の混乱する都の治安を守るため、命を削る日々を送りました。
その配下として組織されたのが――新選組。
土方歳三、近藤勇らが「誠」の旗を掲げ、容保のため、徳川のために戦ったのです。
しかし、幕府崩壊の波は容赦なく押し寄せます。
鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争――。
会津は滅び、容保は降伏。
けれども、彼の名は「最後まで義を尽くした殿」として、今も会津の人々の誇りであり続けています。
■ 田安門の石垣に立ち、動の徳川を思う
清水門が“静”の象徴なら、田安門は“動”の象徴。
どちらも徳川の血から生まれた門でありながら、その性格は対照的です。
清水門の前では風が穏やかに流れていたのに、田安門の前では冬の風が鋭く頬を打ちました。
まるで歴史が、「理想を持て。だが、現実を恐れるな」と語っているようでした。
■ リーダーにとっての「改革」とは
松平定信も容保も、“時代の逆風”の中で信念を貫いたリーダーでした。
歯科医院の経営においても、改革とは時に孤独で、抵抗も受けるものです。
それでも理念を信じ、スタッフや患者さんの未来を守るために行動する——
そこにこそ、本当の「リーダーの美学」があります。
■ 結び ― 静と動の北の丸
こうして、清水門と田安門という二つの門を歩き、私は思いました。
吉宗が作った三大卿の制度は、単なる血脈の管理ではなく、「徳川という理念の継承」そのものだったのです。
静かに守る清水家。
激しく改革する田安家。
そして、現代に生きる私たちは、その両方を必要としているのかもしれません。
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